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twitterで足りないときに書かれる何か

劇場版レヴュースタァライトのキーワードを考えてみる

※ネタバレ注意!※
このエントリではTV版「少女☆歌劇レヴュースタァライト」と「劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト」の内容に触れています。

 

 

 

 


劇場版レヴュースタァライト、素晴らしかったです。

劇場版レヴュースタァライトをTV版との比較も含めて少し考えてみたいと思います。

TV版は「過剰」なレヴューの演出に目が行きますが、「省略」もかなりされていて、登場人物は基本的に
「キリンによるオーディション」「第100回聖翔祭」「戯曲スタァライト
に関わることしかしてないですし、関わらない人物は存在はしても登場しません。
例えば寮のシーンは冷静に考えると「その寮9人専用なの?」と突っ込みたくもなります。

「みんなをスタァライトしちゃいます!」は華恋の口上の締め台詞ですが、TV版を見たときは「みんなスタァライトしかしてない!」と思いました。

もちろんそれは「戯曲スタァライト」と「「第100回聖翔祭」」がリンクするストーリーを誇張するための、あるいは舞台っぽさを含めたメタ的な視点込みのやり方なのは分かるのですが、11話とか若干リアリティラインがガバり気味だった気もします。

 

では学年がひとつ上がった劇場版は何が話の根幹になったかというと「レヴュー」はあるがそれは「オーディション」ではなく、「第101回聖翔祭」も重要な要素ではあるものの描写は最低限、「戯曲スタァライト」も同様でほぼ「卒業のレヴュー」と言っていい内容でした。

リアリティラインもがっつり現実寄りの話になって、省略どころか解像度をどんどん上げていく構成だったのでTV版とは全く別物という印象なのですが、舞台やスタリラとか展開が多いスタァライトなので履修進度でここは変わってくるかもしれません。

 

 

さて「卒業のレヴュー」を分解していくと「別れ」「今この時」「役」という言葉になると思います。

「別れ」はまぁそのままですし卒業には付き物ですが、「戯曲スタァライト」が劇場版ではほぼオミットされているとはいえ、冒頭でキリンが「スタァライトは必ず別れる悲劇」といつもの言い回しをしています。
TV版のカップリングの進路は全て別れる結果となったが、それは決して悲劇ではない劇場版は「戯曲スタァライト」の再々生産なのかもしれません。
(ただ、スーパースタァスペクタクルで「華恋とひかりがあの日見たスタァライト」のリフレインはしっかり入ってるし、「未完の101回聖翔祭台本」時点でそういう感じだったかもしれんが覚えてない……)


「今この時」が重要視されるのはもちろん「思春期からの卒業」だからで二度とない瞬間だからです。
永遠の16歳を繰り返していた大場ななが「聖翔99期強火オタク」と化して「99期生としての最後の一年ちゃんとケジメ着けんかい!」してくるのはなかなか面白い展開でした。

彼女によって象徴的に繰り返される台詞、「列車は必ず次の駅へ、では舞台は?私たちは?」
この台詞、最初は「次の舞台はどこか?そこで舞台少女はどうするのか?」と読んでいて違和感がありました。
「いや、みんな進路ちゃんと考えてるじゃん(2名行方不明1名日和りだけど)」って。

でもそれは間違いでこの台詞の意味するところは「列車は止まることはない。舞台は必ず変わる。そして私たちも。だから、」だと思います。
今は今しかないから大事なんだという、望む望まざるにかかわらず訪れるものに突き動かされる感じは、自発的な情熱のせめぎ合いだったTV版との大きな違いです。
そういえば脚本の雨宮さんも劇場版では締切に追われる羽目に。

この台詞への天堂真矢の応答が素晴らしいと思っていて、
「舞台と観客が望むなら、私はもう舞台の上」
自分の意志とは関係なく舞台に立たされていることをちゃんと自覚しているんですね。


「役」に関してはTV版を見たときに舞台の話なのに役と演者を対立させないんだなと思っていました。
TV版は「第100回聖翔祭」と「戯曲スタァライト」がシンクロする話なので、キャラクターも劇中役とシンクロしている。

しかし劇場版では多くのキャラクターが「役」を担い「役」を演じていました。
細かいところでは鉄火場のクロこと西條クロディーヌが面白かったですね。
立ち合わない人物としてレヴューに参加したのは彼女だけじゃないでしょうか。
あそこはTV版からの双葉とのつながりの延長線なんですが、それ以外でもランドリーでまひると、列車内で純那と会話していたりと人間関係をやすやすと越境していて、そういう役回りなんだなぁと関心しました。

へそを曲げる香子は可愛い方で、「生きるか死ぬか」しか選択肢がなさそうなひかり、「死んでることを理解らせる」とか言い出すななみたいな劇薬に比べると接し方が滅茶苦茶まともで好感度爆上がりしますね。
天堂真矢相手にも「神の器(笑)」を達成した上きっちり墜としててすごい。

役回りの話ではやはり愛城華恋、そしてクライマックスへの流れが素晴らしかったです。

実はひかりと二人でスタァになるという役を演じていて、それに囚われていた華恋と、
その思い出に決着をつける役割のため、今はひとり頂に立つスタァを演じたひかり、
華恋と向き合う責任と役目を自覚させる役割としてホラーキャラの役を演じたまひる

そして最後、舞台女優愛城華恋は「本日、今この時」に帰還する。
スタァライト、構成が上手すぎませんか……?

 

余談ですが華恋とまひるは目標の問題から「何もなくなって」しまったり、聖翔への進学が他人に勧められたものだったりと相似形の存在として描かれている気がします。
眩しすぎる青春を喪失した愛城華恋の今後や如何にと思わなくもないラストでしたが、競演のレヴューで見せたまひるの頼もしさがその回答なのかもしれません。

 

 

終わりに


読み解く方向で劇場版レヴュースタァライトを褒めるのは若干虚しいですね。
映画館で体感する作品としての衝撃がやはり一番先に来ないとおかしいと思うので、それを書けばよかった

イトーキのエフチェアが素晴らしかった話

最近自宅でPC(macだが)に向かっていると腰痛気味だったので、まともな椅子を購入しようと決意。
右も左もわからないので、とりあえず手が届く範囲でなるべく高機能な椅子を中古で買い、次回購入の参考にする方針。

結果、機能・価格と中古の流通量でイトーキのエフチェアを選び、2019製造メッシュハイバック可動肘付きをオフィスバスターズで税込み26400で購入。これが約一ヶ月前。

多少レビューを読んで買いに行ったのだが、実際に使わないと気づかないことが結構あるなと思った。
というか公式サイトで分かる情報と個人差がある使い心地だけ書いてるブログが大半でマジでこの世はお排泄物ですわよ。

座面と背面のコンビネーションが良い

エフチェアの座面の生地はワッフル状に織られているんだけど、これの当たりが結構柔らかい。


もうちょっと硬めの糸や別の織り方なら表面がツルツルというかサラサラした感じになっただろうし、一般的なオフィスチェアはそうだと思うが、エフチェアはこの柔らかい糸を横方向にして織っているので特に前後への摩擦力がかなりのものになっている。
これは良し悪しがあって、購入した個体も使用期間は2年未満だろうに表面の毛羽立ちが結構気になった。
購入店には同じオフィスから仕入れたらしい同一仕様のエフチェアが20脚以上あったがどれも同様だったので、これは摩擦力と引き換えということなんだろう。

この摩擦力とエフチェアの特徴である背面角度調整を組み合わせる。
この角度調整、腰を90度にしたかったので後傾位置は使わないかと思ったけど、後傾にして背筋を伸ばすと腰部にだけ背面が当たるので肩から腰に分散していた圧力を腰に集中させることができる。
なので深く腰掛けるとメッシュ背面のみとは思えないくらい強力な腰部サポートが得られるうえ、座面の摩擦力で前ズレが起こりにくくしっかりと支え続けてくれる。

エフチェアを購入するにあたってランバーサポートオプションが無いことが気がかりだったが、これを体験するとそれも納得である。


可動肘が良い

エフチェアの可動肘は近年バージョンアップしたらしく新型の評価になるが、まず可動域が広い。
角度調整が結構狭目なモデルもある中、内側にほぼ90度まで向けることができるのはタイピング時や小柄な人を考えると大事だと思う。

それと肘置きが背面フレームから伸びていることも注目したい。
これはリクライニングさせたとき重要で、オフィスチェアの大半はシンクロロッキング機能でリクライニング時の座面の傾きが背面より緩くなるようになっている。
つまり肘は上体と一緒に背面と同じだけ傾くのだが、肘置きが座面フレームに接続されていると傾きが足りず肘置きが逃げていく形になる。
これは購入を検討していたオカムラのシルフィー、コクヨのデュオラもこの仕様だったが、エフチェアは肘置きが背面フレームから伸びているのでこの問題は起こらない。

肘置きを使用しないときにも目を向けると、エフチェアの可動肘の柱部分はアームから直立するのではなく少し下に突き出す形になっている。
このおかげで若干肘置きの最低高を下げることができている。
カタログを見ると前出のシルフィー、デュオラが最低高620mmなのに対し、エフチェアは600mm。


たった2cmと侮るなかれ。
身長170cmの私が70cmの机に対し座面の高さを調節したとき、あと2cm肘置きが高かったら一番下に下げても机の下に入らないのだ。
また、肘置きの前後調節幅が80mm(50mm程度が多い)あるので、一番後ろにしたときの邪魔にならなさ加減も大したものである。
「可動」という要素を使用時のアジャストだけでなく、非使用時の収納にまで生かしており素晴らしい。

 

Operaブラウザもそうだったが、実際使ってみてわかる良さというのを持った製品が好きだ。

スピーナやフリップフラップ、バーテブラにアクトとバラエティ豊かなラインナップを揃えているのも気に入ったので、次回購入もイトーキを第一候補にしようと思う。

書いているうちに名作になった「天気の子」

このエントリには映画「天気の子」のネタバレが含まれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ややネタバレ注意】「天気の子」を見てゼロ年代エロゲについて語りだす人々

togetter.com

 

上記リンク先のように特定の文脈を共有する人間に猛烈に訴求する映画「天気の子」。

ご多分に漏れず自分も上映中から


「令和にもなってセカイ系!」
イリヤの空、UFOの夏やん!」
「流石250億監督は言うことが違う!」


と大盛りあがりだった。

果たしてセカイ系のセの字も知らない人が見たらどんな感想になるのか想像もつかないし、冷静に語ることができるとも思えないが気になった点をいくつか。

 


アップデートされた世界の見え方

イリヤの空、UFOの夏」「エヴァンゲリオン」などでは大人が構成する世界との対立、またその閉塞感からくる憂鬱、更には得体の知れない他者全てに対する不安が描かれた。

構図としては世界≒大人が押し付けた使命によって主人公のセカイが世界の趨勢と直結してしまう形だが、天気の子ではこのリンクがことごとく切られている。

 

帆高と陽菜が出会うのも、陽菜が能力を得るのも偶然の産物である。
帆高たちを追う警官はルールに従っているだけ(使命感もあるだろうが)で、決して使命の歯車に押し込めようとするネルフの黒服ではない。
世界の危機(異常気象)を大人たちは把握(人柱の不在)もコントロールもしていない。

 

つまり人間を振り回す世界と大人は完全に分離していて、主人公に課されんとするルールは悪意どころか善意のシステムだし、世界とセカイがつながってしまうのは偶然に過ぎない。

 

学生時代なら先のセカイ系の描く世界にシンパシーを抱いていたかもしれないが、今では天気の子の方の見え方がしっくりくる。

実体験でもネットの観測でも、老若男女を問わず自分と同じくしょうもない人間がたくさん居る。そんなしょうもない人間が一定数居るにもかかわらず、世界は回っていく。
東京どころか自分が住んでいる地方都市のサイクルですら把握することは難しい。いわんや国、地球規模を個人と釣り合わせようなんてのはリアリティに欠けるのだ。

 

天気の子に黒幕は居ない。誰もが自分ができる範囲のことをやって、自分の評価基準で物事を語る。
それは現代的な世界観だと思う。

 

 

常識人

劇中の「大人」は否定的に扱われているとまでは言わないが肯定的には語られない。
須賀さんは曖昧な位置取りしてるけれど、「大人になれよ少年」の台詞は拒絶されるし。
前段を踏まえれば「大人」なんて大したことないことを少なくとも僕らは身をもって知っている。

 

だが帆高は陽菜、凪のトリオで自分が一番年上だと知ったとき明らかに責任を感じている。

つまり帆高の行動原理には「陽菜への好意」「晴れ女ビジネスに巻き込んだ責任」に加えて「年長者は未熟なものを助くべきという規範」があるのだ。

そんなの常識だって?そう、帆高くんは常識的な人間なのである!

 

セカイ系とくれば「エゴを通すか通さないか」になってしまいそうなところに、こんな説得力のある理由を滑り込ませてくるのは正直見事だと思った。

 

 

 

 

異論

帆高があえて間違った道をゆくのが良い、感情と衝動のストーリーだという言説もあるし、否定するわけではないんだけど、
上2つを書いているうちにこの十分なお膳立ての上での選択ってのはロジカルにも解釈できるよう、よく考えられているように見える。

このままだとずっと雨だし、3年後にはほとんど海の底になっちゃうけど、女の子一人の犠牲で回避できるよと都民に問うたら得られる結論は自明でしょ。

 

君の名は。では見ている最中から「なんてストレスフリーな作りだろう」とうなるほどあらゆる要素が適切に置かれていたが、天気の子では「思い返せば」となることの方が多い。

 

 

 

 

東京の端っこで快哉を叫ぶ

天気の子を整理していくと空虚な物語だと感じるというか、むしろ意図してそう作られているように思う。

 

帆高の家出の理由は曖昧だし、かといって保護者との関係が劣悪であるようには見えない。
無力かというと須賀の仕事を手伝ったり、ポートフォリオサイト?っぽいのを利用してビジネスを始めようとする技量と行動力がある。
天野姉弟は喪失に打ちひしがれてる様子はないし、陽菜さんマジ天使だし、凪先輩は言わずと知れた最強コミュ強である。
(ただこの二人の学校、親族、金銭周りがオミットされているのはこの作品で一番アレなところか)
須賀は娘を引き取りたいとは思っているが強烈に執着している様子ではないし、娘や祖母(義祖母?)との関係は良好。
超自然的ギミックもわざと薄く組み込まれている。(「あそこから彼岸に行ける!」と叫ぶ帆高の滑稽さを見よ)
警官は負傷者救護を優先し、監視カメラは仕事をし、未成年へのスカウトは咎められ、何もなければ早晩天野姉弟の元には児相が訪れていたであろう。

 

 

 

そう、誰も困っていないのである。


大人とか社会とか運命とか倫理とかとの対立が主題ではない。

拳銃と巫女パワーの末の東京沈没ですら、切実な人間を映し出すことはない。

それどころか「昔に戻っただけ」「元から狂っている」と矮小化され、帆高が背負う責任すら奪い去っていく。

 

 

ラブホのシーンを見るにつけ内面的成長が全く無かったとは言わないが、チョーカーが切れ、保護観察が明けて、再会するそのときまで、手に残ったものも背負い込んだものもない。

 

その瞬間、帆高には陽菜が何に祈っているように見えただろうか。

 

陽菜さんがいる、彼女自身のために祈っている、それは自分があのときを生きた、決断をした証明だし、声が彼女に届いた証だ。


自分が、世界を変えた。
セカイを変えた。

そしてこれからもやっていく。

 

 

 

 

 

あれ、天気の子めちゃくちゃいい話では……?

20年ぶりのエースコンバットに寄せて エースコンバット7レビュー

本題に入る前にエースコンバット7のキャンペーンモード(ストーリーを追いながらミッションを遂行するモード)が賛否両論の出来になっていることについて。

 

低評価プレイヤーからはストーリー、無人機、ポイントや時間制限のノルマがキツイ、天候等ミッション自体の内容など、様々な点が不満点として挙げられている。
ゲーム上の要素を問題だと感じるか、ゲーム性の一部だと感じるかはプレイヤー次第であるし、私自身も上記の要素のうちいくつかはむしろプラスだと思っているものすらある。

 

しかし、難易度設定に関しては失敗だと思う。

 

キャンペーンを難易度ノーマルでクリアしたときの感想は「ストレスフルで爽快感に欠ける。10点満点で4」くらいだったのだが、どのミッションが駄目だったか振り返ってみると実は詰まっていたミッションは5~6個でしかなかった。
キャンペーンモードは全20ミッションなので四分の一くらいの割合である。

 

心象としては半分以上クソゲーやらされていた感覚だったのに、これはどういうことか。
理由は単純で詰まっていたミッションばかりリトライするので、総プレイ時間における問題ミッションの割合が50%を超えていたのだ。

 

ひょっとすると低評価プレイヤーも苦手なミッションばかりプレイ時間が伸びて、印象が悪くなっているのではないか。

特にシリーズのプレイヤーはとりあえずノーマル難易度でキャンペーン一周、という流れが多いと思うので、そこは不格好でもクリアさせておけば良かったのでは。
それではヌルいというプレイヤーにはハード以上の難易度かSランク取得条件で応えるのが適当だったろう。

 

 


なぜナンバリングタイトルが12年も出なかったのか


エースコンバットはどういうゲームか、その醍醐味は何かと聞かれたらどう答えるだろうか。

私は7以前には3しかプレイしていないが、その3のキャラクター アビサル・ディジョンの台詞にこんなものがある。

 

「推力に頼るな。空力を活かせ」
「勘ではなく、HUDからマニューバを読み取れ」

 

この台詞はエースコンバットの魅力を端的に表したものだと思う。

 

敵機との距離、進行方向、自機の高度・速度を把握して近づき、接敵すれば目視とレーダーを駆使して敵機の挙動を判断。
ロックオンするべく加速・減速、上昇・下降、右旋回・左旋回からふさわしい挙動を選択する。
背後を取ったらミサイルが当たる状況を維持して二発は打ち込むために更に進行方向、相対速度、相対高度を挙動でコントロールする。
ミサイル警告があってもレーダーから飛来方向を判断し適切なタイミングと回避行動を取る。

 

これらを「指が勝手に動く」レベルで行えるようになると、ものすごくエースしてる感が出る。

つまりエースコンバットとは、重力のある3D空間を飛ぶ自機を敵機・敵ミサイルに対し的確にコントロールする、そのためにひたすらにパラメータとインジケータを読むゲームなのだ。

 

 

でもこれって3の頃から全く変わってないんだよな。


エースコンバットのゲーム性はPS1時代にとっくに完成されていて、7でも全く失われていないが、大きくアップデートもされていないと私は思う。

しかもこのレーダーやHUD表示に集中するプレイは、ゲーム機の画質向上の恩恵を受けづらい。
PS4画質になって感動したかといえばそんなことは無く、「3とやってること変わんねえな」というのが率直な感想である。

 

 

ただ、冷静に振り返れば3よりも地形にミサイルを阻まれることが多くなったと思うので、レーダーに映らない地形を目視で把握して侵入方向も計算に入れないといけなくなっているなとは感じる。
またヨーイングを積極的に使わせようとしているのかなと思わないこともない。
ひょっとするとあのロックオン切り替えがお馬鹿なのもヨーイングで微調整しろよというメッセージなのかもしれない。
それらが楽しいかどうかというのは別問題ではあるが。

 

それを踏まえてのベストミッションはmission7「無慈悲な摂理」で、落雷でレーダー・HUDが効かなくなるので自機・敵機の状態を頭の中できちんと把握しておく必要があるし、ミハイが渓谷に飛び込むので、(上がってくるまで待ってもいいのだが)追っていって上記敵機と自機の関係をコントロールすることに加えて地形を縫いながら飛ぶのが上手くいくと脳内麻薬出ますね。

 

 

ただ全体を通してみると「つまるところ戦闘機はロックオンしてミサイル撃つか近付いて機銃を撃つしか出来ない」のでオフラインゲーで新作を出し続けるのはキツいだろうなと。
そりゃナンバリングタイトルが12年も飛ぶわけだ。

 

正直7のキャンペーンの続編は買わないと思う。幸いVRの出来がいいらしいので全編VRでできる環境が整ってたら買うかも。

 

 

 

余談:ストーリーについて(ネタバレ)

ここはかなり評価が難しいんだけど、終盤のあの事態も含めて、悪い意味で敵味方関係ない。
連帯ではなく分断だし、かといって独立独歩ではなく混迷にすぎない。
誰かと誰かの関係性に集約されもしない。
ミハイも、その孫娘たちも、王女も、シュローデルも、スクラップクイーンも、ハーリングさえも自分の思いだけで行動しているように見える。
ワイズマンとカウントは若干違うけど墜されるしね。

脚本とゲームプレイが乖離してると感じる。

我々はおっこちゃんとどう向き合うべきか。映画「若おかみは小学生!」を見て

このエントリは映画「若おかみは小学生!」のネタバレを含んでいます。

 

 

 

 

 

この文章は映画「若おかみは小学生!」の二回目の鑑賞を終えた二日後に書かれています。

 

この映画が非凡であることはご覧になった方ならご存知だと思いますし、私も素晴らしい作品だと思います。
もしこの文章を未見で読んでいる方がいるなら、ぜひ劇場へ足を運ばれることをお勧めします。

作品の良さについては存分に語ってくださっている方が居るので、ここで取り上げるのはこの作品のクライマックスと言える、おっこの両親の命を奪うこととなったトラックドライバー、木瀬とおっこのやりとりの場面です。


要約ですが、

 

木瀬「俺はここには居られない。だって君は、俺が事故で両親を死なせちまった関さん家の一人娘、織子ちゃんだろ?」

おっこ「…………いいえ。私はこの春の屋の若おかみです」

 

と答える場面。


何故、交通遺児 関織子は否定されたのか

主人公おっこの作品内での立ち位置は「交通遺児 関織子」「小学生 おっこ」「春の屋の若おかみ」に分けることができると思います。
もちろん現実的に考えたときのおっこの人格はもちろん、役割においても「小学生で若おかみ」であったり、「小学生の交通遺児」というように簡単に分けて考えることはできないのですが……

 

初回鑑賞後、私はこの三者のバランスについては納得していました。
特にみんな大好きグローリー水領という「事故、血縁、仕事」の輪の外側の人物が小学生おっこの世界を軽々と広げて見せ(でも彼女と知り合えたのは若おかみだったからこそではある)、最大のピンチにも最初におっこを支える役割を担うのは最高の展開です。

 

しかし二回目の鑑賞後、特に @n_method さんのツイートを読んでからは分からなくなってきました。

 

 

このツイートへのリプライで言ったとおり、私はあの問いに「そうです。でも」と続けてほしかった。
それは「交通遺児 関織子」としての感情を「春の屋の若おかみ」の裏側に押し殺しているように思えたからです。

 

違和感はまだ続きます。
展開として木瀬一家を受け入れる理由を「花の湯温泉のお湯は誰も拒まない」からにしてしまうこともできたと思うのです。
おっこはそのセリフを先に言ってしまうのですが、台詞回しを変えればそれをクライマックスに持ってくることも可能だったはず。

その方がずっと穏当な展開にできたのに、伝統だから、両親の、祖母からの教えだから、言うなれば神様のせいにしてしまえばもっと楽になったのに、そうはなりません。

 

実際にはおっこが「春の屋の若おかみ」として彼らを受け入れることが強調されます。

それは小学生に言わせるにはあまりに酷なことではないのか。

 

でもこれこそがおっこの強さだと今は思います。
劇中で「春の屋の若おかみ」がどう見られ、どう扱われているかは直接的に言及されたり描かれたりはしません。
しかしおっことあかね、真月とのやり取りを見れば彼女が十分に「励まされ」「かわいそうと思われ」「気を遣われ」ていることが分かります。
そしておっこ自身そんなことは百も承知なのです。

 

パンフレットによると木瀬家の翔太君は「過去のおっこ」の象徴だそうです。
「ここに居てもいい?」と言う翔太君を抱きとめるおっこにもはや弱々しさは感じられません。

見ている者の不安をよそに、彼女は自分がそこに居る理由を言い放ちます。

 

「いいえ。私はこの春の屋の若おかみです」

(でも彼女が目に涙をいっぱいに貯めて言うというバランスの取り方ホンマすごい……)

 

twitterを検索すると、「おっこちゃんを甘やかしたい」「募金したい」というツイートが出てきます。
私も最初は「おっこちゃんは俺が守護らねば……」と本部以蔵になってたので人のことは言えません。

でもそれをおっこちゃんに言ったらどうでしょうか。
今なら「お客さんとして来てくださいね」と余裕でかわされる気がします。

 

関織子ちゃんの強さに信頼を。
小学生おっこちゃんの無限の可能性に祝福を。
劇場か円盤か、春の屋の若おかみにまた出会う日まで。