短針の速度

twitterで足りないときに書かれる何か

我々はおっこちゃんとどう向き合うべきか。映画「若おかみは小学生!」を見て

このエントリは映画「若おかみは小学生!」のネタバレを含んでいます。

 

 

 

 

 

この文章は映画「若おかみは小学生!」の二回目の鑑賞を終えた二日後に書かれています。

 

この映画が非凡であることはご覧になった方ならご存知だと思いますし、私も素晴らしい作品だと思います。
もしこの文章を未見で読んでいる方がいるなら、ぜひ劇場へ足を運ばれることをお勧めします。

作品の良さについては存分に語ってくださっている方が居るので、ここで取り上げるのはこの作品のクライマックスと言える、おっこの両親の命を奪うこととなったトラックドライバー、木瀬とおっこのやりとりの場面です。


要約ですが、

 

木瀬「俺はここには居られない。だって君は、俺が事故で両親を死なせちまった関さん家の一人娘、織子ちゃんだろ?」

おっこ「…………いいえ。私はこの春の屋の若おかみです」

 

と答える場面。


何故、交通遺児 関織子は否定されたのか

主人公おっこの作品内での立ち位置は「交通遺児 関織子」「小学生 おっこ」「春の屋の若おかみ」に分けることができると思います。
もちろん現実的に考えたときのおっこの人格はもちろん、役割においても「小学生で若おかみ」であったり、「小学生の交通遺児」というように簡単に分けて考えることはできないのですが……

 

初回鑑賞後、私はこの三者のバランスについては納得していました。
特にみんな大好きグローリー水領という「事故、血縁、仕事」の輪の外側の人物が小学生おっこの世界を軽々と広げて見せ(でも彼女と知り合えたのは若おかみだったからこそではある)、最大のピンチにも最初におっこを支える役割を担うのは最高の展開です。

 

しかし二回目の鑑賞後、特に @n_method さんのツイートを読んでからは分からなくなってきました。

 

 

このツイートへのリプライで言ったとおり、私はあの問いに「そうです。でも」と続けてほしかった。
それは「交通遺児 関織子」としての感情を「春の屋の若おかみ」の裏側に押し殺しているように思えたからです。

 

違和感はまだ続きます。
展開として木瀬一家を受け入れる理由を「花の湯温泉のお湯は誰も拒まない」からにしてしまうこともできたと思うのです。
おっこはそのセリフを先に言ってしまうのですが、台詞回しを変えればそれをクライマックスに持ってくることも可能だったはず。

その方がずっと穏当な展開にできたのに、伝統だから、両親の、祖母からの教えだから、言うなれば神様のせいにしてしまえばもっと楽になったのに、そうはなりません。

 

実際にはおっこが「春の屋の若おかみ」として彼らを受け入れることが強調されます。

それは小学生に言わせるにはあまりに酷なことではないのか。

 

でもこれこそがおっこの強さだと今は思います。
劇中で「春の屋の若おかみ」がどう見られ、どう扱われているかは直接的に言及されたり描かれたりはしません。
しかしおっことあかね、真月とのやり取りを見れば彼女が十分に「励まされ」「かわいそうと思われ」「気を遣われ」ていることが分かります。
そしておっこ自身そんなことは百も承知なのです。

 

パンフレットによると木瀬家の翔太君は「過去のおっこ」の象徴だそうです。
「ここに居てもいい?」と言う翔太君を抱きとめるおっこにもはや弱々しさは感じられません。

見ている者の不安をよそに、彼女は自分がそこに居る理由を言い放ちます。

 

「いいえ。私はこの春の屋の若おかみです」

(でも彼女が目に涙をいっぱいに貯めて言うというバランスの取り方ホンマすごい……)

 

twitterを検索すると、「おっこちゃんを甘やかしたい」「募金したい」というツイートが出てきます。
私も最初は「おっこちゃんは俺が守護らねば……」と本部以蔵になってたので人のことは言えません。

でもそれをおっこちゃんに言ったらどうでしょうか。
今なら「お客さんとして来てくださいね」と余裕でかわされる気がします。

 

関織子ちゃんの強さに信頼を。
小学生おっこちゃんの無限の可能性に祝福を。
劇場か円盤か、春の屋の若おかみにまた出会う日まで。