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書いているうちに名作になった「天気の子」

このエントリには映画「天気の子」のネタバレが含まれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ややネタバレ注意】「天気の子」を見てゼロ年代エロゲについて語りだす人々

togetter.com

 

上記リンク先のように特定の文脈を共有する人間に猛烈に訴求する映画「天気の子」。

ご多分に漏れず自分も上映中から


「令和にもなってセカイ系!」
イリヤの空、UFOの夏やん!」
「流石250億監督は言うことが違う!」


と大盛りあがりだった。

果たしてセカイ系のセの字も知らない人が見たらどんな感想になるのか想像もつかないし、冷静に語ることができるとも思えないが気になった点をいくつか。

 


アップデートされた世界の見え方

イリヤの空、UFOの夏」「エヴァンゲリオン」などでは大人が構成する世界との対立、またその閉塞感からくる憂鬱、更には得体の知れない他者全てに対する不安が描かれた。

構図としては世界≒大人が押し付けた使命によって主人公のセカイが世界の趨勢と直結してしまう形だが、天気の子ではこのリンクがことごとく切られている。

 

帆高と陽菜が出会うのも、陽菜が能力を得るのも偶然の産物である。
帆高たちを追う警官はルールに従っているだけ(使命感もあるだろうが)で、決して使命の歯車に押し込めようとするネルフの黒服ではない。
世界の危機(異常気象)を大人たちは把握(人柱の不在)もコントロールもしていない。

 

つまり人間を振り回す世界と大人は完全に分離していて、主人公に課されんとするルールは悪意どころか善意のシステムだし、世界とセカイがつながってしまうのは偶然に過ぎない。

 

学生時代なら先のセカイ系の描く世界にシンパシーを抱いていたかもしれないが、今では天気の子の方の見え方がしっくりくる。

実体験でもネットの観測でも、老若男女を問わず自分と同じくしょうもない人間がたくさん居る。そんなしょうもない人間が一定数居るにもかかわらず、世界は回っていく。
東京どころか自分が住んでいる地方都市のサイクルですら把握することは難しい。いわんや国、地球規模を個人と釣り合わせようなんてのはリアリティに欠けるのだ。

 

天気の子に黒幕は居ない。誰もが自分ができる範囲のことをやって、自分の評価基準で物事を語る。
それは現代的な世界観だと思う。

 

 

常識人

劇中の「大人」は否定的に扱われているとまでは言わないが肯定的には語られない。
須賀さんは曖昧な位置取りしてるけれど、「大人になれよ少年」の台詞は拒絶されるし。
前段を踏まえれば「大人」なんて大したことないことを少なくとも僕らは身をもって知っている。

 

だが帆高は陽菜、凪のトリオで自分が一番年上だと知ったとき明らかに責任を感じている。

つまり帆高の行動原理には「陽菜への好意」「晴れ女ビジネスに巻き込んだ責任」に加えて「年長者は未熟なものを助くべきという規範」があるのだ。

そんなの常識だって?そう、帆高くんは常識的な人間なのである!

 

セカイ系とくれば「エゴを通すか通さないか」になってしまいそうなところに、こんな説得力のある理由を滑り込ませてくるのは正直見事だと思った。

 

 

 

 

異論

帆高があえて間違った道をゆくのが良い、感情と衝動のストーリーだという言説もあるし、否定するわけではないんだけど、
上2つを書いているうちにこの十分なお膳立ての上での選択ってのはロジカルにも解釈できるよう、よく考えられているように見える。

このままだとずっと雨だし、3年後にはほとんど海の底になっちゃうけど、女の子一人の犠牲で回避できるよと都民に問うたら得られる結論は自明でしょ。

 

君の名は。では見ている最中から「なんてストレスフリーな作りだろう」とうなるほどあらゆる要素が適切に置かれていたが、天気の子では「思い返せば」となることの方が多い。

 

 

 

 

東京の端っこで快哉を叫ぶ

天気の子を整理していくと空虚な物語だと感じるというか、むしろ意図してそう作られているように思う。

 

帆高の家出の理由は曖昧だし、かといって保護者との関係が劣悪であるようには見えない。
無力かというと須賀の仕事を手伝ったり、ポートフォリオサイト?っぽいのを利用してビジネスを始めようとする技量と行動力がある。
天野姉弟は喪失に打ちひしがれてる様子はないし、陽菜さんマジ天使だし、凪先輩は言わずと知れた最強コミュ強である。
(ただこの二人の学校、親族、金銭周りがオミットされているのはこの作品で一番アレなところか)
須賀は娘を引き取りたいとは思っているが強烈に執着している様子ではないし、娘や祖母(義祖母?)との関係は良好。
超自然的ギミックもわざと薄く組み込まれている。(「あそこから彼岸に行ける!」と叫ぶ帆高の滑稽さを見よ)
警官は負傷者救護を優先し、監視カメラは仕事をし、未成年へのスカウトは咎められ、何もなければ早晩天野姉弟の元には児相が訪れていたであろう。

 

 

 

そう、誰も困っていないのである。


大人とか社会とか運命とか倫理とかとの対立が主題ではない。

拳銃と巫女パワーの末の東京沈没ですら、切実な人間を映し出すことはない。

それどころか「昔に戻っただけ」「元から狂っている」と矮小化され、帆高が背負う責任すら奪い去っていく。

 

 

ラブホのシーンを見るにつけ内面的成長が全く無かったとは言わないが、チョーカーが切れ、保護観察が明けて、再会するそのときまで、手に残ったものも背負い込んだものもない。

 

その瞬間、帆高には陽菜が何に祈っているように見えただろうか。

 

陽菜さんがいる、彼女自身のために祈っている、それは自分があのときを生きた、決断をした証明だし、声が彼女に届いた証だ。


自分が、世界を変えた。
セカイを変えた。

そしてこれからもやっていく。

 

 

 

 

 

あれ、天気の子めちゃくちゃいい話では……?